第2作目著書への心温まるメッセージ第6号

投稿日:2012年09月26日

 ~人生哲学の本ですね~

 ついに二作目を出版されましたね。読むだけでも時間がかかる大作です。それをお得意の統計の手法を交えながら、ビジュアルに分かりやすく纏めています。アウトドアとインドアを一人で行なうわけですから大変な労力を要したと思います。
 

 人をホットさせる容貌の一方で、強い意志、エネルーギーを感じます。二作目を拝読し、樫原さんが纏めたかったのは、鉄道つたい歩きそのものよりも、自分史を纏めたかったと改めて感じます。人生90年の中で自分は何を成し遂げたのか、その記録をつくりたかったということですね。
 

 その中でも、人との交流をとても大切にしていることが良く分かります。普段接しているとほとんど感じることはありませんが、「自分が今対面している時間、空間は二度と来ない。それゆえ一期一会を大事にする。」、まさに、人生哲学の格言です。また、先輩の言葉だそうですが、「話すと愚痴が始まり、書くと前向きになる」は、前向きでいるための名言ですね。
 

 これだけボリュームのある出版物を見ると樫原さんは本当によくやったナアと思うのですが、もっとスゴイには、これを許す奥さんですね。
 

 これからもお体に気をつけられ、未踏の仙台以北、北海道、四国、九州と是非全国制覇をし、皆さんに明るい希望を与えてください。
                  柳田 雄治 氏(会社後輩)

 

第2作目著書への心温まるメッセージ第5号

投稿日:2012年09月26日

 ~雪舟を目指せ~

 創刊号の発行は浜の真砂の数ほどあるけれど、2号は親知らず海岸から出るヒスイの数ほどに少ない。ましてや鉄ちゃんがホームの先端にへばりついて、走り来る列車を待ち受けて作る写真集とは違って、自分の2本の足で書くのだから大変である。

  創刊号は東京から地続きでの踏破だが、2号は遠隔地からのスタートになり、条件が厳しくなる。聞けば、西は山陽本線、北は常磐線と東北本線を踏破したという。何故そこまでして鉄道つたい歩きをしようとするのか?

 最初はきっと減量のために始めたのであろう。行程の中に,未知への遭遇があり、人の親切やぬくもりに触れて彼が変化していったのではないかと思われる。これからも北海道や九州まで足を進めて、今や《美しい日本の発見》が究極の目的だと彼は語った。また、56歳から歩き始めて73歳でなくなる17年間で日本をくまなく測量して歩いた伊能忠敬が目標であるとも語った。

 しかし、私は48歳で明国(中国)に渡り、本場の水墨画を学び、帰国後は全国を放浪しながら絵を描いた雪舟の方がお似合いのように思う。何故なら雪舟は岡山の出身で、彼の出身である香川とは瀬戸内を隔てたすぐの隣県である。寺に預けられた雪舟の幼少の頃、学問をせずに遊んでばかりいて折檻として柱に縛られたとき、落ちた涙を足の指で生きているような鼠を描き、許されたと言うが、樫原少年もお茶目で他人の言うことを聞かず、自分の信じる道をひたすら進む姿が雪舟によく似ているからである。

 スタンプラリーのような自己満足に終わることなく、多くのシニアに俺も私もチャレンジしてみようと思わせるような成果物を残して欲しい。

               山田 正 氏(大学・会社先輩)

 

 

 

第2作目著書への心温まるメッセージ第4号

投稿日:2012年09月25日

~巻頭言~

 樫原君から‘こだわり鉄道つたい歩き’の巻頭言をまたしても頼まれた。前回、書いているとき思ったのだが、確か東海道本線だったが、その時、樫原君は、まだまだ他の線を歩いているようだったので、また、本を出すのかなと思っていたが、その通りとなった。今も挑戦(彼は歩くことをそう言っている)をしているのだろう。私は、現役を引退しているので、今の状況は分からないが、歩いていると思う。
 
 本の最初のところで、今までの歩いた距離が掲載されているが、6,000キロを超えている。これは米国サンフランシスコ迄の距離ぐらいの感じかな。たいしたものだ。今回はそのうちの約1,500キロ、仙台から下関を書いている。本来は青森から下関、本州縦断としたかったようだが、東日本大震災の被害を受けた常磐線の復興を願って早く出版するとのことである。震災の被害により今は行けない駅もあり、震災前の状況がわからない。
 
 樫原君が出版を早めたのは、上述の通り、東日本大震災の影響である。少しでも皆さんに震災前の状況を伝えたかったのである。浪江町、亘理など、今でもニュースに出てくる。多分、今はもうない駅もあるのでしょう。あるいは復興した駅。でも今は昔と違っていることでしょう。ただ、本当に復興だけを願って出版をすることとしたのではないか。
 
  つたい歩きを始めたころに比べ、場所も東京からは遠くになって、青春18切符があったとしても、かなりの出費ではないか。奥さんも怒っているのかな。でも健康のためと考えて理解してもらっているようだ。大体、泊まる場所は、東横インだ。東横インから宣伝料でも貰ったらいい。途中の食事は、ラーメン、そば、カレー、ホテルでは決まって、焼酎。そばには必ずかき揚げが入っている。ただ言わせてもらえば、健康を気にしているのだから、もう少し野菜を多くとったほうがよい。
 
  つたい歩きをしていると地図にない場所など、どうしても人に聞かないといけない場合がある。当然、老若男女、行く先々で出会いがあり、語らいがあり、人の触れ合いがまた楽しいことである。道がわからなくなって道を尋ねることになるが、残念ながら、樫原君はせっかちだから聞き違い、誤った方向に行ってしまう場合があるようだ。長いことやっても、せっかちな性格は直らない。今度は、健康もいいが、性格を直したらいいと思う。それは無理かな。
 
 冗談はともかくとして、今度の力作を読んでいただきたい。まだまだ続きがあるような気がする。カッシー館が開設されたので、これからはインターネットでも見ることができるようにしたら便利だと思う。
 村山 良樹 氏(フコク生命元役員・日本アクチュアリー会元副理事長)

 

 

第2作目著書への心温まるメッセージ第3号

投稿日:2012年09月25日

 ~最強の男”樫原”伝説~

  樫原 勉氏とは昭和48年入社の同期生なので、かれこれ40年の付き合いとなる。彼は香川県三木町の出身、私は隣接する徳島県鳴門市の出身。大して離れていないのだが、讃岐と阿波では県民性・気質にかなりの差異があり、生真面目で実直な阿波人の小生に言わせれば『讃岐男はとにかく意固地で自己中心』となる。樫原氏の場合はさらに強靭な執着心が相俟っており、結果、彼の活動領域では、独特な気質から派生するエピソードがばら撒かれている。そして、そのエピソードが富国生命内部、生保業界内部で伝承されていくうちに『最強の男 樫原伝説』と変遷し、広く流布している。

 その『最強の男 樫原伝説』を少しだけ紹介しよう。

(その1)“F生命の最終兵器”伝説
 生保協会の運営する各種委員会にあっては、各社の利害得失が錯綜するので往々にして会議運営がデッドロックに乗っかってしまう。
余りにも会議運営が難航する場合、座長役が「F社から、次回の会合メンバーは樫原氏に変更したいとの発言があった・・」とコメントをすると、何故か、難航していた会議運営が一転してスムーズに行き、次回への持ち越しがなくなるという『樫原氏 F生命最終兵器』伝説がある。イメージ的は、某国核問題を討議した6か国協議の開催時に出撃した空母エンタプライズ、というところである。

(その2)“麻雀で豪邸”伝説
 讃岐男の樫原氏はとにかく勝負に固執する。特に麻雀に関しては勝つまでは止めない。結果、究極の体力勝負となり、体調管理に秀でた樫原氏の勝利となってしまう。実際、彼の雀友の何人かが体調を崩している。座間市の樫原邸はその麻雀の儲けで建てたという『麻雀で豪邸』伝説があり、小生も含めて多くの友人が今でも「あそこの大黒柱は僕のもの」と涙ながらに訴えている。

(その3)“なんなくアクチュアリー”伝説
 難関で有名なアクチュアリー試験だが、その資格の性格から業務に関連する主計部門者が圧倒的に有利となる。その有利な主計部門者でもかなりの蛍雪をして初めて突破できる難関試験を、残業に明け暮れるシステム部現役時代に、なんなくクリアーしたという『なんなくアクチュアリー』伝説がある。人材豊富な生保業界全体でもシステム部現役者の試験突破は彼が嚆矢と聞いている。余暇時間のほとんどを麻雀に費やしていたことを考えると驚愕ものである。但し、携わったシステムの出来具合の評価については、関係者一同、口を閉ざしている。

 他にも『宴会は鶏肉料理で』『あんころ餅雑煮』『愛妻年金物語』等の意味深長、意味不明、掲載躊躇な伝説があるが、今回はここまで。
                  多田 右(あきら) 氏(会社同期)

第2作目著書への心温まるメッセージ第2号

投稿日:2012年09月24日

 ~小説”樫原 勉”物語ですね~

 同じアクチュアリー・年金数理人で立命館大学の1年後輩である 樫原 君と知り合ったのは、私が公的年金から企業年金の仕事に転籍した平成16年頃のことでした。

 初対面当時、人の内面は顔に出るとも言われますが、体型からして大相撲力士の「アンコ型」をし、内外面共に親しみやすい風貌をしているとの印象でした。その後、数理関係や大学同窓会の会合で何度か会っているうちに、お腹がへこんで全体にスリムかつ健康そうな日焼け色で精悍な容姿になって、日常会話では、うどん(香川)県言葉が混入することもありますが、まさに「ダンディ型」の小父さんに瞬く間に変身してしまったのには驚かされました。
 

 訳を聞くと、歩くこだわりを持って―鉄道つたい歩き―をしているとのことでした。初めて聞く言葉でしたが、“東海道本線踏破編”と今回の“仙台=下関踏破編”を読んで更に驚き、経験のない感動を受けました。

 樫原君は「鉄道つたい歩きの実録を読者の方に紹介したい」と説明していますが、この二編には、筋書きのない鉄道つたい歩きばかりではなく、訪れた先々の風土、地元・郷土・高校大学・会社の人々との楽しい付き合い、好みの歌・食べ物、仕事・生き方へのこだわり、樫原君自信の優しい人柄等々、多くのことが織り込まれていて、教えられるばかりではなく、同じ団塊の世代の者として勇気づけられるもので、単なる実録紹介本というよりは「小説 “樫原 勉 ”物語」と言えるのではないかと思います。

 「人生の臨終を迎える際、“自分が納得ゆくマラソンであった” と言えれば私の夢は最高となろう」と述べています。この鉄道つたい歩きにも臨終の前に何時かゴールを迎える日が来ることと思います。最後の4,122m(良い夫婦)のウォーキングは、是非、お世話になった奥さんと手を取り合ってゴールインし、都内で完走のお祝い会を関係者で開催させて頂きたいものです。

             西野 孝幸 氏(アクチュアリー・大学先輩)

最近の記事

アーカイブ